詩子アナ:孟浩然は中国の人ですから、「春暁」のハングルの訳詩があれば、答えは1)か3)ですね。「春暁」を金億先生がすでになさっていると仮定すると、同じ詩をまた弟子の金素月が訳して発表することはまずないと思われますので、2)か4)でしょうが、『꽃다발』というタイトルからすると、もう答えはこれしかありません。
第14問:答えは4)の 朝鮮女流詩人のみの漢詩です。
歌樽先生:正解です。『꽃다발』は朝鮮の女流詩人の漢詩をハングル訳したもので、中国の漢詩は含まれていません。伝統的な「時調」という詩のジャンルがあるのですが、金億はこのジャンルでの訳も試みています。金億も漢文調を残したままの訳だけでは満足できず、独自の訳を試みる必要性を感じたのでしょう。
詩子アナ:では一つの朝鮮の女流詩人の漢詩を2つの異なったやり方で訳を付けたのですか。
歌樽先生:そうです。全ての漢詩に2つのやり方で訳詩を付けているんです。そこが偉いですね。
詩子アナ:こうした訳に対して反対とか批判とかそういうものはなかったのでしょうか。
歌樽先生:それはありましたね。金億自身も玄相允先生から訳詩について「どうして原詩の訳だといえるのか」と批判されたことを本の巻頭辞で書いています。
詩子アナ:玄相允先生とは誰ですか。
歌樽先生:一言では説明しにくいのですが、学部は早稲田の英文科で学び、後に高麗大学校の初代総長になっている人です。
詩子アナ:そういう方ですか。ともかく金素月は金億先生の自由な訳に惹かれたんですね。
歌樽先生:そうですね。そういう面もあったとは思いますが、素月からすると、さらなる自由が必要だと考えていたようです。
詩子アナ:さらなる自由というと、「時調」の枠も超えたような詩ということですか。
歌樽先生:なかなかの達観ですね。
詩子アナ:いえいえ、「時調」についてはよく分かりませんが、それを超えた方向ではないかという直感が働いたものですから。
歌樽先生:詩の理解にはそういう直感も必要ですよ。
詩子アナ:金億先生はどこの学校を出られたのですか。
歌樽先生:慶応義塾大学の英文科のようですよ。
詩子アナ:「樹芽」の詩のキーワードは確か「설다 해도」でしたよね。
歌樽先生:そうでしたね。そろそろ本題に戻りましょう。ここでもう一度「旧樹芽」と「新樹芽」とを比べてみましょう。
詩子アナ:はい。もう一度みてみます。
旧樹芽 新樹芽
웬만한 설은봄은 아니여! 설다해도
웬만한,
봄이안이어,
나무가지 가지마다 눈을텃서라, 나무도 가지마다 눈을터서라!
내가슴에도 봄이와서 (該当なし)
지금 눈을 트랴고하여라. (該当なし)
歌樽先生:「旧樹芽」も「新樹芽」も同じ4行なのに、「旧樹芽」の後半部の2行が無くなったのはなぜでしょうか。
詩子アナ:これはまた難しいことを訊かれてしまいました。「旧樹芽」の「설은 봄」の「설은」の活用はどうなっているんですか。
歌樽先生:今度は難しい質問がこちらに飛んできましたね。では、これを問題にしましょう。
第15問:次の中で詩中の「설은 봄」の「설은」と最も関連のないものはどれでしょうか。
1) 섧다 2) 서럽다 3) 설다 4) 썰다
詩子アナ:最も関連のあるものではなくて、最も関連のないものですか?最も関連がないかどうか分かりませんが、違うことだけは確かなものがあります。
第15問:答えは4)の「썰다:(野菜などを)刻む」です。
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