詩子アナ:そう言われても、心の準備が必要です。「웬만한, 봄이안이어,」と言える理由は「나무도 가지마다 눈을터서라!」にあるので、そのことを、もう一度取上げて「내가슴에도 봄이와서 지금 눈을 트랴고하여라.」と言わなくてもいいようにしたのはどの語句かということですか。
歌樽先生:正解です。
詩子アナ:答を言っていないのに正解でいいのですか。
歌樽先生:詩とは流れも大切で、この流れからすると、もう正解以外は考えられません。
詩子アナ:ヤッター! 久しぶりにいい気持ちです。
第17問:答えは、2)の「설은봄」を「설다해도」に変更、です。
歌樽先生:もう少し説明できますか。
詩子アナ:もうこうなったら何でも来い!という心境です。恐いくらいです。
歌樽先生:これは大変なことになってきましたね。
詩子アナ:「樹芽」の詩のキーワードが「설다 해도」だったことを忘れかけていました。これで謎が解けました。危なかった!
歌樽先生:謎かけをしようとは思いませんが。
詩子アナ:まず、1)の「웬만한」の位置変更ですが、これは「웬만한,설다해도」という語順は成立しません。つまり、この位置変更が主ではなく、他の要因によって位置の変更をせざるを得なくなったものだと考えます。こうした理由で1)ではないことが分かりました。次に3)「봄은 아니여」の「봄이안이어」への変更ですが、「春じゃないか」という基本的な意味に変わりありませんので、これが「旧樹芽」の最後の2行を削除した理由になるとは思えません。4)「나무가지」の「나무도」への変更は「나무가지 가지마다」の2つの「가지」を嫌ったもののようです。
歌樽先生:消去法できましたか。
詩子アナ:「설다해도」でなければならない理由があるんです。
歌樽先生:では、それを聞きましょう。
詩子アナ:「旧樹芽」の「설은봄」では「설은」は「봄」を修飾しているので、「春」と自分との関係がはっきりしていません。そこで、自分と春とのかかわりを「내가슴에도 봄이와서」と書いているのですが、「설다해도」とすると、この「해도」の中に自分との関係が出てくるので、「내가슴에도 봄이와서」という部分が不要になるので、次の「지금 눈을 트랴고하여라.」ももちろん要らなくなったという訳です。
歌樽先生:ずいぶん自信を持っていますね。
詩子アナ:分かってくると自信が出てきました。
歌樽先生:では、どこに推敲の余地があったのでしょうか。
詩子アナ:「내가슴에도 봄이와서、(直訳:私の胸にも春が来て)」という表現形式が古いと感じたからではないでしょうか。
歌樽先生:第9問の答「a) わが胸に春訪れぬ 今まさに芽を吹かんとす。」、「b) わが心にも春来り 芽は今まさに出でんとす。」と試訳したところですね。なぜ、古いのでしょうか。
詩子アナ:「내가슴에도」という表現で自然と自身との関係を単純に結びつけてしまうという古典的な方法から脱出したかったからではないかという気がします。
歌樽先生:なるほど、ずいぶん深くなりましたね。
詩子アナ:詩が精錬所を通って、純なものになったといった感じがします。
歌樽先生:もうすっかり詩人の域に達していますね。精錬所を通って、純なものになったというその感じは、素月自身が感じていたかもしれませんね。「설다해도」には「恨(ハン)」といわれる内容が含まれていると思われますから、ここを訳出することができればいいですね。
詩子アナ:この詩の理解に参考になる他の詩はありますか。
歌樽先生:参考になる他の詩ですか。では、こんな問題を出しましょう。
第18問:同じ金素月の詩集『진달래꽃』の中に「가지:枝」のあるものは次のどれでしょうか。
1)楽天(낙천) 2)父母(부모) 3)万里城(만리성) 4)紙鳶(지연)
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